浄念寺川からの分流?(横浜市都筑区池辺町3054からの流れ)
前回、前々回の記事にした江川の支流・浄念寺川。
浄念寺川が「池辺町小川アメニティー」と呼ばれる辺りから
分流していたと思われる流れを探索してみた。
今現在は浄念寺川とのつながりはないようであるが、
湧水が健在で水の流れを見ることができる。

写真:上流→下流
横浜市都筑区池辺町3054の辺り。
浄念寺川から分流するように暗渠がある。
だが、隙間から暗渠の中を覗くも、水は流れていないようだ。
ここから東方向に支流を下ってみる。

写真:下流→上流
細い暗渠を抜けた所。ここからは歩道下に暗渠があるようだ。

写真:上流→下流
コンクリート蓋付きの暗渠が歩道となっている。
この流れは丘を下った際に流路があるため、
写真中央の辺りからは湧水による水の流れが発生している。

これが暗渠内を流れる水。

丘の方からは湧水が細い流路をつくって流れ込んできている。

この「新坂」という坂の側溝からは多くの湧水が流入している。

新坂にある民家の壁下方からも水がたくさん湧出している。

写真:上流→下流
ここには自然の川が流れていたのだと思われる。
流路が曲がりくねっているのがわかる。
もしかして、こちらが浄念寺川本流だった時代もあるのか?

写真:上流→下流
アスファルト舗装の暗渠となっている場所もある。

この小支流の水量は豊富である。

写真:上流→下流
緑産業道路の岩崎橋交差点付近。
この植え込み脇の路地が暗渠だと思われる。

しかしながら、この交差点付近で雨水幹線に水は落とされて、
鶴見川に流されているようだ。マンホール周囲にチョークで
雨水幹線の次のマンホールが示されている。

以前はこの路地が流路であり、
この先で江川に合流していたと思われる。
この浄念寺川は、農業用水争奪の紆余曲折が江戸時代から
戦前までおこなわれていたようである。流路の変更も何度か
実施されたようで、そのうち記事にする大熊川の支流に
影響を与えたようだ。
浄念寺川が「池辺町小川アメニティー」と呼ばれる辺りから
分流していたと思われる流れを探索してみた。
今現在は浄念寺川とのつながりはないようであるが、
湧水が健在で水の流れを見ることができる。

写真:上流→下流
横浜市都筑区池辺町3054の辺り。
浄念寺川から分流するように暗渠がある。
だが、隙間から暗渠の中を覗くも、水は流れていないようだ。
ここから東方向に支流を下ってみる。

写真:下流→上流
細い暗渠を抜けた所。ここからは歩道下に暗渠があるようだ。

写真:上流→下流
コンクリート蓋付きの暗渠が歩道となっている。
この流れは丘を下った際に流路があるため、
写真中央の辺りからは湧水による水の流れが発生している。

これが暗渠内を流れる水。

丘の方からは湧水が細い流路をつくって流れ込んできている。

この「新坂」という坂の側溝からは多くの湧水が流入している。

新坂にある民家の壁下方からも水がたくさん湧出している。

写真:上流→下流
ここには自然の川が流れていたのだと思われる。
流路が曲がりくねっているのがわかる。
もしかして、こちらが浄念寺川本流だった時代もあるのか?

写真:上流→下流
アスファルト舗装の暗渠となっている場所もある。

この小支流の水量は豊富である。

写真:上流→下流
緑産業道路の岩崎橋交差点付近。
この植え込み脇の路地が暗渠だと思われる。

しかしながら、この交差点付近で雨水幹線に水は落とされて、
鶴見川に流されているようだ。マンホール周囲にチョークで
雨水幹線の次のマンホールが示されている。

以前はこの路地が流路であり、
この先で江川に合流していたと思われる。
この浄念寺川は、農業用水争奪の紆余曲折が江戸時代から
戦前までおこなわれていたようである。流路の変更も何度か
実施されたようで、そのうち記事にする大熊川の支流に
影響を与えたようだ。
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